こんにちは私の住んでいる街は、四国愛媛県の松山です。

 まことに小さな国が、

 開花期を迎えようとしている

「坂の上の雲」のドラマの始まりのナレーションです。


松山城の天守閣から見渡すてっぺんの景色は十五万石の景色で別格です。132mという場所にある松山城は、松山平野から見上げる私たちの心に、のんびりした空気を醸し出してます。


松山城は日本三大平山城の一つと言われます。
平山城とは(Gooで検索)、平野部にある丘陵を利用して本丸を築き、周囲に外郭を設けた城。

姫路城(92m)、熊本城(50m)、松山城(132m)、ちなみに調べると松山城の大天守の標高は約161m

江戸時代以前に建造された天守が現代に残っているのは、全国で12城「現存12天守」 唯一、松山城は築城主として瓦には葵の御紋が付されています。松山城は連立式天守。大天守・小天守・櫓を四方に配置し、多聞(たもん)櫓(長屋形式の櫓)でつなぐ形式。建物で仕切られた中庭ができるのが特徴。厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われており、「現存12天守」の中では、姫路城と同じ構成なのです。

【現存12天守】・・・「弘前城」、「松本城」、「丸岡城」、「犬山城」、「彦根城」、「姫路城」、「松江城」、「備中松山城」、「丸亀城」、「松山城」、「宇和島城」、「高知城」

 

石垣は野面積(間に小石をつめて補強)※野面積みが最も古い年代に現れた積み方

松山城の天守閣というのは有料です。つまり、ここからが見所です。(笑)天守閣に向かうにつれ、石積みの形が変わります、防御が強固になります。

 

天守閣に向かう階段も、急勾配になります。




私も、松山のボランティアガイドをいつかやって、皆さんを歴史の渦に引き込んでみたいです。ガイドさんがいるか、いないかで城への学習度は大きく違います。

賤ヶ岳七本槍の初代城主加藤嘉明は、働きモノだったんでしょうね。
「坂の上の雲」で殿が民と一緒ににぎりめしを食べながら城造をした下りがあったように思いますが、聖武天皇が行基菩薩に命じて東大寺をつくって鎮護国家を目指したように、松山の殿は松山の殿で後世の誇りを残したんでしょうね。2つの山をくっつけ、山に広場をつくった訳と発想の源、あの石垣の石はどこから持ってきたんだ・・・次の宿題が残りました。

1603年加藤嘉明が「松山」という名をつけました。徳川家康の姓の松平から「松」をもらい、勝山を松山と改めたのが由来のようです。



はてな?私の頭のうえには吹き出しのように、この松山城城主、加藤嘉明がどんな人であったか、興味を持ちました。

著者:日下部正盛(くさかべ まさもり)
大正十一年生まれの方で、愛媛県内の小中学校に勤務されていたとのことです。

この一冊を読むと、豊臣配下の武将がこうして伊予国にやってきて城を作り、城下町が出来て、領田を開発し、殖産興業を行ない、石手川重信川の治水をどのように行なったかは興味津々です。その知謀の行方が気になります。徳川の時代になり会津と城替えとなり松山を去ります、その運命の綿々とした連なりと、戦国時代の武将の生き様は、心をギュッとつかんできます。

本の内容を書くと延々長くなるので省略しますが、賤ヶ岳の闘いで七本槍と呼ばれるまでになりましたが、有名ではありません。有名になってはいけなかったのかも知れません。

出しゃばらず、目立たず、冷静に判断し、自分の運命を受取りながら生きて行く。それは戦国時代の処世術だったに違いない。そして運命の松山という土地での約32年間は、幾ばくだっただろうかと。会津40万石に城替えとなった時に、その愛着をどのようにしまったのだろうか。そんな時空を遡りながら、故郷の歴史に思いを馳せることは、人生の私の楽しみです。

今日はこんな処です。

投稿者プロフィール

渡部雅泰ライター
クレストデジタルズ株式会社
代表取締役
渡部雅泰(わたなべまさやす)
愛媛大学非常勤講師

profile
愛媛県中小企業家同友会
愛媛県松山市中央倫理法人会
海外旅行100回以上(大学卒業後旅行代理店勤務、主に海外旅行を担当)
家族で全県宿泊挑戦中(家族で23/47都道府県)
2016年お遍路逆打結願
山下達郎さんの大々ファンです、愛媛FCボランティア